意識が闇に落ちて行く中、炎が迫ってくる音だけがやけにはっきりと聞こえていました。  ああ、これで私はやっと死ねるのですね。  未練がないと言えばウソになるかもしれませんわ。  でも……  この先、無駄に生きていくよりも、いっそここで死んでしまえるのなら…… 「けふっ、けふっ」  煙が気管に入り込んできます。  ああ、感覚が鈍ってきましたわ。これならば楽に逝けそうですわね。  ふふ。楽な死に方ですこと。  あとはこのまま、ねむ…る……よ……………に <<与えてやろう……>>  だ、誰ですの? <<与えてやろう……>>  ならば…死を <<与えてやろう……>>  違う?  私に呼びかけているのではない。 <<与えてやろう……>>  なら…誰に? <<与えてやろう……永遠の愛を>>  遠くで誰かのいらえがあります。 「っっ!!!!!」  そう感じた瞬間です。  私の体に、痛みが戻りました。 「っ!ふっ!くはぁっっ」  体中を打撲と、そしておそらくは火傷による痛みが苛みます。 「ああっ!!いやぁ」  それは凄まじい激痛でした。  言語に絶するとはまさにこのこと。  こんな時に、母の名を呼べたら、あるいは愛するものの名を呼べたのなら楽なのでしょ う。 <<与えてやろう……永遠の愛を>>  たとえ気休めにしか過ぎなくとも、私にはそれすらありません。  頼るものも無く、どこまでも落ちて行ってしまいそうな虚無感。  こんなものに耐えられるものではありませんわ。  だから、はやく楽にして欲しいのに。 「ああ……ぁ?」  恐ろしい事に、痛みがどんどんと引いて行きます。  それが死に行くが故の感覚の麻痺でしたら、どれほど嬉しい事でしょう。  しかし、ドクドクと力強く脈打つ鼓動がそれを否定します。 「ああ……ぁぁぁぁっ」  むずがゆい感覚は、急速に体の損壊した部分が癒されているからでしょうか。 <<与えてやろう……永遠の愛を>>  いりませんわっ。そんなもの。  私が望むのは…… <<与えてやろう……永遠の愛を>>  ああ、やめてくださいまし。  私を生き返らせないで。私の体を……体を…… <<与えてやろう……永遠の愛を>>  やめて、私の体をもうこれ以上いじらないで。  私を。私を作り変えないで。 <<与えてやろう……永遠の愛を>>  いくら懇願しても、私の体が変えられていくのは止まりません。  それどころか。 <<与えてやろう……永遠の愛を>> 「あ……あ……」  その変容が心まで及びはじめます。 <<与えてやろう……永遠の愛を>>  いらない……  いらないのに。愛なんて。永遠の愛なんて……  やめてくださいまし。 <<永遠の愛を……>>  いらないのに…… <<永遠の愛を……>>  やめ……… <<永遠の愛を……>>  私が変えられていく…… <<永遠の愛を……>>  心も体も…… <<永遠の愛を……>> 「いやぁぁぁぁぁっっっ!!」 「すせりっ。おい。すせり。  どうした。しっかりしろ」  大きく暖かい腕が私を包みます。そのぬくもりに、私は全てを忘れてすがっていました。 「ぁぁ。お兄様?」 「ずいぶんとうなされていたな。何か怖い夢でも見たのか?」  夢……夢……夢!? 「そう。怖い夢でした」  寝ぼけていた頭が次第にはっきりとしていきます。部屋の暗がりに目が慣れるにつれ、 ここがビジネスホテルの一室だとわかってきました。 「よっぽど怖い夢を見たんだな、すごい寝汗だぞ。  ほら拭いてやるから、パジャマを脱いで」  お兄様に促がされて、私は両腕をバンザイの形にします。まるで人形のように力の抜け た私の服を、お兄様は上から引っこ抜くようにして取り去りました。 「あ……」  私の裸身がお兄様の前にさらけ出されました。ひんやりとした部屋の空気が、悪夢に火 照った体にとても心地よい。お兄様は部屋に備え付けられていたタオルで、やさしく汗を ぬぐってくれます。 「ほら、バンザイして」 「はい……」  ふふ。お兄様に全てをあずけてこうしていると、むずがゆいような恥かしいような、な んともいえない心地よさに包まれますわ。 「あんっ」  タオルの布地に擦られて、まるで愛撫されているかのような錯覚にドキドキしてしまい ます。いえ、何よりも愛する人に、こうしていだかれているという状況に、私の頭は幸せ で一杯になります。  お兄様に体を拭いてもらい、着替え終わった頃には悪夢の残滓はすっかり消え失せてい ました。 「すせり?」 「お兄様……」  きゅっと抱きついた私を、お兄様は優しく抱きとめてくださいました。  あの頃の私はなんと愚かだったのでしょう。お兄様の胸におさまっているときのこの安 心感。この幸福感。  なにものにもかえがたいこの感情を、死んでいたら味わうことは出来ないのですから。  それにしても、今ごろあの夢を見るなんて。  私がお兄様の妹になったときの夢を見るなんて。  原因は判っています。  昨夜、私の所に届いた一通のメール。それは小学校時代の友達からの、同窓会のお知ら せでした。  常識外れだと思いませんか?  普通、小学生くらいの子供がいう「転校してもずっとお手紙するからね」の「ずっと」 なんて1ヶ月かそこらの話でしょう?せいぜい長くて一年くらいですわ。  それなのにこの方は、本当に「ずっと」送ってきているのです。まったく、律儀という のも程度というものがあるでしょうに。おかげでいやな過去を思い出してしまいましたわ。  でも…… 「なあ、すせり」 「はい」 「落ち着いたようだな」 「ええ。お兄様のおかげで」  そういって抱きしめてくれるお兄様の力強い腕。この幸せすぎるほどの“今”の前に一 瞬にして色褪せていきます。  そのまま眠りに落ちていきながら、私はもう悪夢を見ない事を確信していました。  だって、こんなにも暖かい現実に、過去が侵入してくる余地はありませんもの。  悪夢を見た夜から数日後。  私は何をするでもなく、テムズ河を眺めていました。  なんでこんな所にいるのかというと、シンジケートの報告か何かで、お兄様がロンドン のオフィスの一つに出向いているからですわ。  それだけならまだしも「退屈だろうから、どっかで遊んでこい」と言って放り出されて しまったのです。 「ふうぅ」  情けないため息が漏れてしまいました。  お兄様。どうして判ってくれないのでしょう。私にとって、お兄様と共にいる事が一番 幸せですのに。  お兄様と離れ離れになるよりは、退屈のほうが遥かにマシですわ。  夏期休暇の時期と言う事もあり、観光客の姿が多いのも癇に触ります。まったく、私が お兄様と離れ、孤独を味わっているというのに、へらへらと笑いやがりまして。  一人残らずテムズ河に叩き込んでやったら楽しいかもしれませんわね。 …………  そんな虚しい妄想で時間を潰すのも悲しいですわ。 「キャンッ、キャンッ」  でもどうやって時間を潰そうかしら。 「キャンッ?」 「って、人が考えているときにうるさい犬ですわね」  いつの間にか人の足元に、小型犬がまとわりついていましたわ。鬱陶しいので睨み付け てやります。 「キャイン、キャイン」  おほほほほほ。  犬畜生とはいえ、格の違いというのが判るのでしょう。一瞥しただけで、お腹を見せて 服従のポーズをとりましたわ。 「すいませーん」  おや、飼主が来たようですわね。せっかくだから、からかい倒そうかと思ったのに。残 念ですわ。  二十歳くらいのその女性は、小走りに近寄って犬を抱き上げました。 「すいません。この子、ちっともじっとしていなく……て……?」 「?」 「オッペンハイマーさんっ?」 「ごめんなさい。知り合いに似ていたものだから、つい」  スタンドで買ったフィッシュ&チップスをつまみながら、私はその方の話に耳を傾けて いました。  もちろん、私の財布から出たお金ではありませんわ。迷惑かけたお詫びに、とこの方が 買ってくれたものです。  足元では先程の犬が、こちらを媚びるような目線で伺っています。ダメですわよ。そん な目をしたところで、あげませんわ。  そんなやり取りを見ているのか否か、彼女は嬉々として、小学校の頃の旧友だった“オ ッペンハイマーさん”の思い出を語りはじめました。  曰く、クラスのリーダー格で、誰も逆らえなかったこと。  曰く、とても勇敢で誠実だったこと。 「当たり前ですわ。それは私なんですもの」  そう言いたいのをぐっと押さえ込みます。  間違いありません。彼女は私の小学校時代の友人です。もっとも、向こうはその事に気 付いてないのですが。  それは当たり前のことなのに、心がちくりと痛むのを感じます。  彼女は私の気も知らずに、何よりも大事な親友だったと笑顔で続けました。  だから今でも文通していて、最近ではメールでやり取りをしていると言うのです。 (まったく。あなたのせいで変な夢を見たじゃないですか) 「でもよく考えたら、あの子も私と同じくらいの年になっているはずなのよね。」 「そうなんですか」 「うん」  私のバカげた相槌にも彼女は律儀に返答しました。まったく。こういうところもぜんぜ ん変わっていない…… 「オッペンハイマーさんが転校して行った時以来、会っていないから」 「それで今でも親友といえるのですか?」 「もちろんっ」  私の皮肉交じりの言葉に返って来たのは、満面の笑みでした。 「きっと、今ごろ素敵な女の子になっているんだろうな」 「それは否定しませんが……」  小声で言った言葉は、彼女の耳に届かなかったようです。 「彼女はいま、宝石商のお義兄さまと一緒に世界中を飛び回っているんですって。  この間までは日本にいたそうよ」  会いたいなあ。と遠い目をする彼女に、私はかける言葉がありませんでした。  私は真実を知っています。あなたの横にいる小さな女の子が、あなたの会いたがってい る親友なのだと教えることも出来ます。  でも、それを言ってなんになるでしょう。到底信じてもらえるものではありませんし、 もし信じてもらえたとして、なんと説明します?  下手をすれば余計な秘密を知ったとして、カルテルに抹殺されかねません。  では、もう彼女に会う事はないのだというべきでしょうか。  嘘。ではありませんわね。彼女が思い描いている、同年代の女の子として親友に出会う ことはありませんから。 「ふう」  ここは黙って何も知らないふりを通したほうがいいでしょう。 「それで、貴女はこのあたりに住んでいるのかしら?」  タイミングをはかって、別の話題に水を向けてやります。  そう仕向けられて、彼女は嬉々として語り始めました。そういえば、おしゃべりの大好 きな娘でしたわ。  彼女はケンブリッジにいること。英文学を学んでいる事などを語り始めました。  ルームメイトの奇癖から、名物教授の逸話。そしてボーイフレンドとののろけ話を延々 と語ります。活き活きとした学生生活が、目に見えるようです。  こちらには夏期休暇で戻ってきている最中で、実家の飼い犬と散歩の途中で私と出会っ たのだそうです。 「うらやましいですわ」 「そんなことないわよ。あなたも一生懸命勉強すれば、私くらいにはなれるわよ」  何にもわかっていない能天気な声ですこと。私が何をうらやんだかなんて、見当もつか ないのでしょうね。  ふと、空想を膨らませてみます。  年齢相応に年を重ねた姿の自分を。そして彼女の語る楽しげな学生生活にあてはめてみ ます。  悪くありませんわね。  私がこんな体質でなければ、きっとそんな毎日を過ごしていたのでしょう。おそらくは 彼女とも毎日顔を会わせて、今みたいに他愛のないお喋りを楽しんでいたのでしょうね。 私はしばしの間、そんな空想をもてあそんでみました。  それは私には決して手にする事の出来ない生活ですわ。現実の彼女達は私を置いてどん どんと先に進んで行ってしまう。いくら望もうとも、彼女達と同じ時間を歩む事は出来な い。いえ、もう既に異なる時間を歩み始めていますわね。  彼女と話していると、それが実感できます。かつて同じ時間を過ごした彼女がなんと遠 い事でしょう。 「それじゃ、また会えるといいね」 「ええ。貴女こそお友達と再会できると良いですわね」  心にもない台詞を口にして、私は彼女と別れました。二度と私も、貴女のお友達も再会 することはないというのに。  彼女の後姿が雑踏に消えるのを確認すると、なんとなく腹が立って、手にしたフッシュ &チップスの包み紙を乱暴に投げ捨てます。  同時に、孤独感が私を襲いました。まるでこの世界の全てが私を置いて行ってしまうか のような。独り、孤独な時間の流れに乗せられ、引き離されてしまうかのような頼りなさ を。  そう。私はこの界隈にいる人々が全て年老い、そして亡くなった後も、まだ若いままで いるでしょう。その認識のもたらす疎外感は圧倒的なものでした。  私でなかったなら、押しつぶされてしまっていたかもしれません。それどころか、私も 以前は押しつぶされそうになった事もありました。  ですが…… 「おっ、こんな所にいたのか」  ぽんっと、あたたかい手が頭の上に置かれました。 「お兄様っ」 「なに、辛気臭い顔してるんだ?」  いつの間に来られたのでしょう。私の背後にお兄様が立っていました。 「お兄様ぁ」 「おいおい、こんな所でなんだよ」  思わず甘えかかってしまった私を、優しく抱きとめてくれます。  その胸板に顔を埋めると、お兄様の匂いを肺一杯に吸い込みます。 「お兄様。私はとても寂しかったですわ」 「大げさだなあ、数時間あえなかっただけだろ」  ちっとも大げさではありませんわ。こうして共にいると、お兄様を愛する事の喜びが湧 き上がってきます。  そうです。この幸福の前ではちっぽけな疎外感などたちまち吹き飛んでしまいます。  私には愛する人がいる。そして、その人と同じ時間を歩める。これだけでもなんと素晴 らしい事なのでしょう。  お兄様と同じ時間を共有するのであれば、他の誰が私より先に老いようとも関係のない 話ですわ。 「なあ、すせり。なにがあったか知らないが、美味いものでも食べてパァーーーっとやろ う」 「本当ですの?」 「おう。今までの活動費やら工作資金やら大量に分捕ってきたからな」 「さすが、お兄様素敵ですわ」 「よし、決まりだ。どこの店に行こうか」 「そうですわね、せっかくですからドーバーを渡って大陸のほうで食事をしたいですわ」 「よしっ、任せとけっ」  走り出すお兄様の手をぎゅっと握り締め、私は心の中でそっと感謝しました。  私を孤独から救ってくれた事に。  生きる意味を与えてくれた事に。  ですから、私は永久にそばにいますわ。  お兄様のおそばに。  永遠の愛をお兄様に……