吐く息に白い物が混ざり始める。
バケツに張った水は表面が凍りそうな程に冷たく、空気も乾いてきている。
12月も半ばを迎えると冬の気配も色濃くなってきていた。
「はぁぁ……つめてぇ……」
真っ赤になった手に息をはいて、両手でこする。
いつしか季節は12月に入り、夏の名残りを残す時期から肌を冷気が刺す季節になっていた。
「よっと……」
水を張ったバケツにブラシを突っ込み、勢いよく取りだした。
先端から離れた雫が石畳に黒い水滴を作る。
目の前にある大岩にあてると、ごしごしと擦りはじめた。
要石と呼ばれている神社のご神体だ。
穂邑神社の中にあって由来がまったくわからないとされていたものだが、今ではそれもはっきりと分かっている。
くすんだ色の大岩の表面には炎をかたどった文様が刻まれている。
それは肌を刺すほどの冷気の中にあって、熱を発しそうな程に鮮やかに赤く輝いている。
「せいがでますわね」
背後からの少女の声に振り返る。
そこには金髪の女の子が居た。
長い髪を二つにわけて、左右に垂らしている。
寒空の中でもスカートに長袖のブラウスだけという薄手の姿だが、その足取りは普段と変わらず、寒さを感じてる様子もない。
「リーゼは寒くは……無いんだろうな。やっぱり」
「愚問です」
やっぱり大丈夫らしい。
エウスリーゼがうちで暮らすようになってから一ヶ月と少し。
まだまだ日本の暮らしや気候は慣れないかと思ったが、そんなのどこ吹く風で順応しているのは、彼女の過ごしてきた時間があまりに長く、さまざまな経験を持ってるからだろう。
「……そのようなもの、熱心に磨かなくても良いと思いますが」
「ん〜……まあ、そうかもしれないな。でもなんとなく……な」
この要石はリーゼと出会った頃には無かった物だ。
正しく言うなら、失われていた。
俺がこの中に封じられていた妖怪――くおんと出会った時にぶっ壊れ、完全に姿を消していたものだ。
それが今はここにこうして存在している理由も、今の俺たちにはわかっていた。
人とは違う成り立ちをした妖怪でありながら、異界を封じる役割を自らに課していたくおん。
彼女を相棒として最初は反目しあい、やがて協力しながら駆け抜けた一ヶ月は、それと同じくらいの時間が流れた今でも鮮烈な記憶になって残っている。
「気持ちはわかりますが」
リーゼが所在なさげに肩をすくめる。
彼女も同じ気持ちなのだろう。
俺たちは共に同じ時を過ごして、そして分かりあってきていた。
俺とリーゼとくおんと……そして、要石の傍らに置かれた小さな石の主も。
石畳の上を竹箒が掃き清めていく。
冬になり落葉の季節は終わったが、それまでに散った葉が地面の上に残っている。
リーゼは丁寧な仕草で落ち葉を集め、特に要石に隣接した小さな石の辺りを綺麗に清めた。
「そちらの石と違い、ここにアリーセはいません。それでも、汚れたままにしておくのは気が引けてしまいますからね」
「……だな」
リーゼと共に過ごした少女も、今はその傍らにはいない。
金髪の彼女と対照的な銀色の髪をした女の子。
いつも突拍子もない言動で俺たちをからかっていた。
くおんとの別れは、同時にアリーセとの別離の時でもあった。
異界を封じて石と化したくおんと、そしてもう二度と会えない少女。
「…………」
要石の横に作られた小さな石は彼女の墓標だ。
姿も残さず消えたアリーセの足跡を残すただ一つの物であり、彼女がここにやってきた証でもあった。
「そのような顔をしていると、アリーセに笑われますよ。またへんな名称を付けられたりするかもしれませんね」
「う……それは困る」
「ならばしっかりなさい。ここに来るたびにいつもそうではないですか」
「……返す言葉もない」
呆れた口調のリーゼに頭をかく。
それだけ鮮烈で濃密な時間が過ぎた後は、穏やかな時間だった。
たまに小さな異界の事件こそあったが、その規模も中身も以前とは比較にならないほど軽い。
それもまた、以前とは違う事を意識させられてしまう。
「それでは、アリーセが戻ってきた時に笑われますよ」
「…………え……?」
だからこそ、何気なく発したリーゼの一言に言葉が詰まった。
「戻ってくるって……それって……!?」
思わず、リーゼに詰め寄る。
やや気圧された感じで一歩下がった。
「勘違いさせてしまった事は謝罪します。ですが、アリーセがあなたが想像したように、人の概念的に生きているという訳ではありません」
「そう……なのか」
「とはいえ、全てが間違いだと言ってしまうのも、また正確ではありません。私たちのような存在の死を人と同じに考えるのも、また違うのです」
「それは?」
「私たちの生は、人と比べても曖昧なものです。それは寿命という概念が薄い事や、老化……人間なら誰しもある成長という物が無い事からも明らかでしょう。逆に言うならば、それは生きているとは呼べないものです」
「いや、でもリーゼは目の前に居る訳だし」
「ええ。そうです。その事が私たちの存在を明らかにする唯一の方法であり、人に存在を証明できる現象です。その事は同時に私たちの生の概念が人から見るととても希薄なものでもあるということです」
リーゼと俺では時間の尺度が違う。
生物としての頑強さも、存在も、能力も……ただそれでも共に心を持っていて通わせあえるという一点で彼女は同じ道を歩んでくれてるに過ぎない。
「そして生の概念が違うということは、死もまた違うということです。ご存じの通り、私たちは生まれも人とは違います。特にアリーセの成り立ちは特殊なものですから」
異界というのは、人の心を受けて形を作る。
それが俺たちの関わっていた異界化事件だった。
「……人の心から生まれた存在だから、じゃあもしかして」
「断言は出来ませんが、その可能性はあるという事です。少なくとも私はそう思います」
「そっか」
少し納得がいった。
リーゼの目的は失われた故郷を取り戻すという事だ。
それは失くしてしまった物の再生に他ならず、アリーセの事と酷似している。
「とはいえ私もそう思えるくらい整理がついたのは、つい最近の事です。アリーセに笑われてはいけないというのは、私自身でもありますね」
リーゼは小さくほほ笑んだ。
とても強い彼女が、少しだけ弱く見える……そんな頬笑みだ。
彼女は、小さく息を吐いた。
白い吐息が微かな風に乗って流れていく。
出会った頃から比べて随分寒くなったのを改めて実感する。
リーゼは空を見上げて言った。
「この話が出来て良かったと思います。ここを発つ前に心残りが消えました」
「……ここを……発つ?」
「ええ、少し――」
「ちょっと待て!」
「え……? あ、はい……」
先よりも強く、リーゼに詰め寄った。
困惑する彼女を抱きしめるくらいの距離で、リーゼに問う。
「発つってどっかに出かけるってことか? 故郷探しの旅に戻る? そもそも、今すぐじゃないといけないのか?」
「え? ええと、その……」
「もうちょっとだけ待ってくれ。そしたら冬休みになるから。それなら――」
「……ぷ」
「………………?」
リーゼが口元に手をあてる。
おかしさをこらえるように、かみしめた笑いを零した。
「ふふ、くすくす、なんですかそんなに慌てて……もうとてもおかしいですね」
「い、いや……だって、いきなりだったから……」
「大丈夫です。私はあなたがいる限り、ここから離れる事はありません。ただ……そうですね、一度里帰りをしようと思いまして」
「…………里帰り?」
リーゼに? 故郷を探していたのにそんな所が?
混乱する俺の顔が面白かったのか、リーゼは再び笑った。
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